先日書いたこの記事。かなりの反響がありました。
今日の記事の前にこのおりんの鳴らし方を読んでない方は先にこちらを読んでくださいね。
知らなかった、勉強になった!という方もいれば、霊を呼ぶために叩いた方がいい!とかいろいろご意見ございました。
なんといいますか・・・・、そうしたい人は別にそうしてくれたらいいんですよ。
何も「絶対叩くな!」とか「全員同じようにしろ!」とはひとことも言ってないわけです。
間違ってる!!って鼻息あらい方もおられますが、この記事は浄土真宗(うちは真宗興正派)の作法にのっとっていうと「叩かなくていいものですよ」っていう記事なんです。
そもそも作法ってなんだ?
そもそも作法は仏さまに敬意を示す、つまり仏さまを大事にしようというときに、その「やり方」をひとつ決めましょうということなんですね。
日本では車は左側走行、海外では右側走行、みたいにその共同体でスムーズにことが進むように「これはこうしましょう」ってことを決めただけ。
誰か一人が「いや、俺は右側走りたいから!!」とか好きなこと言い出したらややこしいでしょう。
同じ教えを大事にしようとする人が、共通理解でスムーズに動けるようにそのルールを決めたということです。
お寺じゃなくても、ここの神社では柏手が何回、礼が何回とかいうのも、そのフィールドで敬意を示す「示し方」はこうですよってことが共通理解となるように決められているわけですね。
ですから時代の変化にともなって、お寺の作法は変わることがあります。
基本的に大きな変化はありませんが、昔はやってたものがなくなったり、新しく作られたり、教えの内容に矛盾しない範囲で「作法」は時代に応じて多少変化があるものなのです。
浄土真宗ではお念仏が一番大事
浄土真宗の教えをめっちゃ簡単に言うと「お念仏」が大事ですよ。って言ってるわけです。
ですから浄土真宗の教えにそって、お参りする時には手を合わせて「南無阿弥陀仏」ってお念仏するということが一番大事なところです。
それをお参りする時に「おりん」をならしただけでお参りしましたよ、とか霊というものを認めていないのに霊を呼び出す意味がある、とかいいだすと本質とずれちゃうんですね。
1番大事なことが違ってきてしまいます。
そういうわけで、「信は荘厳より生ず」という言葉もあるように「作法」を理解するということは「教え」を大事にすることのひとつなのです。
ぼくは浄土真宗の僧侶としてその教えの内容をお伝えするのが役割です。
ですからその範囲において、手を合わせるだけの時に「おりん」をたたくということは作法の中にはないものですよと書いたのです。
だから別に他宗派のやり方を禁止したり批判したりするつもりもまったくありません。
こどもたちがお参りするときに「おりん」を鳴らしたいのは別にかまんのです。鳴らしたかったら鳴らしたらいいんです。
でも浄土真宗のご門徒さんでその教えを大切にするつもりがあるのなら、お参りの一番大事なところは「おりん」を鳴らすことではなくて手を合わせて「ナンマンダブツ」って言うんことですよってちゃんとこどもたちにも教えないといけないということなんです。
3歳にもなれば「ナンマンダブツ」は言えますからね。
他宗派のことはわかりません。
他宗教や他宗派でおりんを鳴らすことが教えにつながる意味のあるものだったら鳴らしたらいいんです。
ここで何が言いたいかというと、自分のところの檀那寺さんに自分の宗派の作法を聞いて「ものの見方」や「考え方」を学び、人生に生かしていくということが一番大切だということを申し上げたいわけです。
こういう話しになるとみんな「やり方」「目に見える形」のところばっかり話題にして、「それは違う!!」とか「こんなやり方もある!!」とか言って話がややこしくなるし、そういうので仏教はめんどくさいってなるんです。
本当は「考え方」とか「ものの見方」というところに触れて欲しい。
人生は誰一人同じ道はありませんので「こういう人生が最高だ」というものは提示できません。
ですが、「ものの見方」を学び、それぞれの人生において完全燃焼できる生き方ができたらいいですねと思うわけです。
何回も言いますけど、何も強制はしていないんですよ。
浄土真宗の教えを強制しているわけではないのです。
ただぼくにとっては浄土真宗の教えは大事だと思っているし、人間という生物の性質について非常にドライで、現実的で科学的なものの見方をしていると思っています。
まだまだ勉強は浅いながらも、知って良かったと思っています。
変な迷信や六曜なんかにも振り回されませんしね。
この知って良かったを関わりのある方にも感じてもらえたらなと思って、それを伝える手段のひとつとしてこのブログを書いているわけです。
学ぶということは「聞く」ということ。
自己流で都合のいいところだけ学ぶのではなく、そのまま「聞く」ということ。
そのまま聞くと耳の痛いことや、「嫌だ」と思うこともあるかもしれません。
その「嫌だ」と感じるところに「ただ聞く」ということができない、自分の考えや執着にとらわれてしまう人間の本質があらわれるのだと思います。
大事なとこだけかいつまんで聞くというのは結局「私のものさし」ですから。
仏教は「私のものさし」「私の執着」というものから離れていく教えです。
「私のものさし」で世界を判断して生きることから「教え(法)のものさし」で世界をとらえて生きることへシフトしていくことであります。
家の宗派が浄土真宗のかたは、この記事に書いてあることをまもろうとする、というのも家の宗旨を大事にするという事につながりますので記事に紹介したとおりにしていただければ良いかと思います。
違うよというかたは自分の宗旨の事を学んで大事にしてください。
それぞれ大事なものが違うということを、お互いに認め合って尊重していける世界を「平和」というのだと思います。
合掌。
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