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仏教界のキラキラネーム!?阿弥陀如来はものすごい光という名前の仏さま。

世の中にはいろんな「名前」がありますが、名前といえば近年話題になるのがキラキラネーム

謎のモヒカン

他の人と被らん名前をつけたろ!!

という思いが強すぎるからか、漢字のルールから逸脱した読み方をしたり、奇抜な名前をつける方が増えたように感じます。

そういう名前を某育児雑誌が「キラキラネーム」というようにしたみたいですが・・・

そういう意味の「キラキラ」じゃなく、ほんまもんに光り輝く名前ってのが仏教にはあるんですよ。

マジで「キラキラ」とかそんな次元じゃないレベル。

阿弥陀仏(アミダ)という名前

キラキラネームの代表が浄土真宗のご本尊の阿弥陀仏


阿弥陀仏のアミダという言葉は、古いインドの言葉でアミターバアミターユスという言葉がもとになっています。

この言葉は分解すると

打ち消しの言葉で、英語でいう「not」と同じ意味です。

「〜でない」という意味を持っています。

ミタ

ミタというのは計られた、とか量られたという意味の言葉です。

英語で言えばmeasure(メジャー・はかる)などと同じ語源を持つそうです。

アーバ・アーユス

アーバは「光」という意味です。

アーユスは「生命」とか「寿命」という意味ですね。

生命科学のアーユルヴェーダのアーユルなんかも、このアーユスという言葉からきているんです。

つまり阿弥陀(アミダ)とは

この「アミターバ」「アミターユス」という言葉が変形し、それが中国で漢訳されたときにアミタに音が当てられて「阿弥陀」という言葉になりました。

つまり阿弥陀(アミダ)という言葉は量ることができない光、計ることができない生命という意味の言葉なんです。

親鸞

お、俺たちの想像を超えている・・・っ!!


阿弥陀仏とは「無限の光」「無限の命」を持った仏さまという意味なのです。

正信偈の中にこの光がどういう光か書いてあるよ。

阿弥陀仏の光というのは12の性質をもっているといわれ、親鸞聖人の書かれた正信偈の中にはこのように書かれています。

親鸞

普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)

無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)

清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)

不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)

超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)

一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)

正信偈より

唯円
  1. 無量光(むっちゃすごい光やで)
  2. 無辺光(限界のない、はてしない光やで)
  3. 無碍光(何にも妨げられない光やで)
  4. 無対光(他に比べるものがない光やで)
  5. 光炎王光(最高の光やで)
  6. 清浄光(めっちゃきれいな光やで)
  7. 歓喜光(ほんまに嬉しい気持ちになる光やで)
  8. 不断光(途切れることがない光やで)
  9. 難思光(こっちの想像も及ばんすごい光やで)
  10. 智慧光(わけのわからん自分らに、はっきりほんまもんを見せてくれる光やで)
  11. 無称光(凄すぎて、言葉でたとえようがない光やで)
  12. 超日月光(太陽とか月よりすごい光やで)

そういうはたらきでみんなを照らしてくれてるよ!

阿弥陀仏という仏さまはまさに光そのもの。

そう考えたら、もうキラキラどころじゃないレベルですよ。

その光が無限というのは、教えの届く範囲が空間的にさえぎられるものがないということ。

寿命が無限ということは、過去から未来まで時間的な制約がないことの表現なのです。

教えを光と表現する意味

光がみんなを照らし出している、というのはいつでも・どこでも・誰にでも、すべての人にこの教えは有効であるということです。

世界を貫いている法則やはたらきという目に見えない教えのはたらきを、人間にわかるようにする1つの表現として「光」と表現しているのです。

ぼくはこの仏さまを光と表現するのは、とてもよくできた表現だと思うのです。

というのも、光の性質というのは「何かを足す」ものじゃないんですよね。

暗いところで物を探すときに電気をつけるとか、夜道を歩くときに懐中電灯で足下を照らすということがあります。

これは光のはたらきを利用しているわけですけど、懐中電灯で照らしたところの重さが増えたり、何かボコボコボコってうまれてきたりするわけじゃないですよね。

光があたった部分に何か足されるわけじゃない。

でも光があたったところはその姿や形がはっきり見えるんですね。

光があることは何かに遮られた時によくわかる。

そして、光は何かに当たらないと光があることがわからないんですよ。

夜空に向かってライトを向けても、光がどこを照らしているのかってよくわかりませんよね。

でもそのライトの光を手で遮ると光があることが確認できます。


つまり、障害物がないと光というのは認識できないんです。

これは教えということでも同じです。

教えを横から眺めるだけではわからず、「私」というものが教えに照らされてようやくその本質がわかるものなのです。

光の仏さま、阿弥陀仏をお参りするということ

阿弥陀仏という仏さまにお参りしたり、合掌して念仏したからといって、病気が治ったり、宝くじが当たったり、仕事がうまくいったりするわけではありません。

そういう何か自分に対して何かプラスがあることを期待すると間違えてしまいます。

ただ、光(教え)に触れていくことで、自分自身の姿や生き方がはっきりしていく。

ここに要点があるわけです。

ですから浄土真宗のお寺では、何か自分の人生にラッキーを付け足すようなお守りもないし、お祓いもないし、祈願や祈祷もないのです。

まさに何も足さない、何も引かない。

ありのままの人生をやわらかい心で生きぬく教えなのです。

六曜厄年みたいな論理破綻したような迷信に振り回されず、ただ自分の人生を完全燃焼させるために、教えに照らされた人生を生きることが重要なことなのです。

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