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いただきます、ちゃんとことばにしてますか?いのちに感謝、お仏飯のこころ。

「いただきます」と「ごちそうさま」こどもでもいえる簡単なことばなのですが、深い意味をもったことばですよね。

今日は食事の前や後に唱和する、「食前の言葉」や「食後の言葉」をご紹介します。

食前のことば



これは真宗興正派の食前のことばです。僧侶の研修などで本山で食事をする時には、みんなでこのことばを唱和してから食事を頂きます。
でも

「いただきます」や「ごちそうさま」なんて言う必要はない。だってお金を払っているんだもの。

という意見の方がおられるようですが・・・みなさん食事の前に「いただきます」と手を合わせていますか?

食前のことば・いただきます

保育所や小学校では給食の前にみんなで手を合わせて「いただきます」と唱和してから食べているとききます。
ぼくがこどものころもそうやって給食を食べておりました。
それがいつごろからか大人になっていくにつれて、手を合わせて「いただきます」という機会は減っていきますよね。

「手をあわせましょう、どうぞおあがりください、いたーだきます!」

ってみんなで言う強制力がある時にはもちろんできますが、自発的にひとりでも言えるかというと・・・黙ってそのままごはんを食べ始めてしまうことも多いんじゃないでしょうか。
お店など外で食べるときに1人で「いただきます」って手を合わせるのは、何か少し気恥ずかしいような感じさえします。
しかし、手を合わせちゃんと言葉にするということはひとつの食事に向き合う時にとても重要なことではないかと思うのです。

いのちの対価

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作物の生産管理から流通、保存までさまざまな技術が進歩して、ここ日本ではお金さえ払えば安心安全に食事がとれるというのはあたり前になりました。
お金さえ払えば栄養がとれる。食欲がみたされる。
加工されたものやきれいにパッケージされたものに慣れすぎて、その背景に「いのち」があるということは感じにくくなったのかもしれません。
では、その食事のために使ったお金は、一体何の価値に対して払ったお金なのでしょう?
我々が食事のために払うお金は、収穫してくれた人、そこまで運んでくれた人、料理をしてくれた人達の労力に対する賃金や経費であって、食事となった魚や肉や野菜のその「いのち」の対価としては1円も払っていません。
お金を払っているから食べて当たり前、というものの見方はその点がぬけ落ちています。
「いただきます」という言葉は、我々の体となってくれた無数の「いのち」に対して敬意を払うとともに、私は無数の「いのち」をいただいて生きている、ということを思い出させる言葉なのです。
私がはたらいたお金で、私が用意して、私が食べて、私が栄養をとって生きているんだという「私中心」のものの見方では、他の「いのち」を大切に想う気持ちは育っていきませんよね。
多くのいのちの関わりの中で自分が生きているという大局観とでもいいましょうか、こどもでも言えるこの「いただきます」のひとことから、広い視野と世界観の中にある自分のあり方というものを学ぶ事ができるのではないでしょうか。

お仏飯の意味

この教えを表しているお荘厳(しょうごん)(お飾りのこと)がお仏飯です。
一般的によく言われるのは「故人のおなかが空かないように」とご飯をお供えしていると思っておられるかたも多いと思います。
しかし浄土真宗では亡くなった先祖に召し上がって頂くためにお仏飯をお供えしているのとはちょっと意味が違います。
先に浄土に生まれ仏となった故人も阿弥陀様も完璧な存在ですので、人間がお供えするような食事は必要ありませんし、仏壇にお供えしたお仏飯を仏様が食べておられるところを私は見た事がありません。
お仏飯の意味は、我々の主食であるご飯を仏様にお供えさせていただく事で自分の「いのち」を形作っている多くの「いのち」に感謝し、私は生かされて生きているということを確認させて頂くものなのです。
ご飯が炊きあがったら、1番最初に仏飯器にごはんを盛りつけ仏前にお供えをしましょう。

ちゃんとしたいけど、そんなにご飯は炊かないよという方

生活のスタイルは時代とともにかわってきました。
夜しかご飯を炊かないよという方や、毎日はごはんを炊かないという方は炊いた時でかまいません。
お供えをして、正座して合掌後(お勤めを出来る方はしてください)、すぐお下げしたらよいかと思います。
そしてお下げしたお仏飯は大事に召し上がってください。お仏飯はさまざまな「いのち」の恵みのお下がりとして、我々がいただくものです。
本山興正寺でも朝のお勤めの終了後にお仏飯をあげ、お昼までにはお下げします。
朝にお仏飯をあげて、夜に下げるのでは乾燥してカピカピになってしまい、とても食べられるものではなくなってしまいます。
間違ってもお下げしたご飯を捨てるなど、粗末にするようなことがないように心がけたいものです。
仏飯器の真鍮のにおいがごはんにつくのを防ぐためにはこういうステンレスの落としがついたものを使われるとよいでしょう。

食後のことば・ごちそうさまでした

食後のことば

食事がすんだらもうひとこと。
お店から出るときに「ごちそうさま」とか、家でもご飯を作ってくれた方に「ごちそうさま」とは言うと思うのです。
もう1歩すすんで、食事となってくれた数多くの「おかげさま」と「いのち」に思いをはせて「ごちそうさま」と声にだしたいものです。

真宗各派の食前食後のことば(わかった範囲で)

本願寺派

食前のことば

「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます。」

食後のことば

「尊いおめぐみを おいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげで、ごちそうさまでした。」

大谷派

食前のことば

「み光のもと、われ今幸いに、この浄き食をうく いただきます」

食後のことば

「われ今、この浄きを終わりて、心豊かに力身に満つ ごちそうさま」

仏光寺派

食前のことば

「わたくしたちは、今この食膳に向かって衆恩の恵みに深く感謝します。味と品の善悪を問いません。いただきます。」

食後のことば

「わたくしたちは、この美しい食を終わって、大いなる力を得ました。この力を報恩の行業にささげます。ごちそうさま。」

高田派

食前のことば

「われ今、さいわいに、このうるわしき食を受く。みほとけのめぐみを思いて。いただきます。」

食後のことば

「われ今、このうるわしき食を終わりて、心ゆたかにちから身にみつ。ごちそうさま。」
どの宗派であっても、食事を頂くということは他のいのちを奪ってなりたつものであり、反省と感謝の心で食事に向かい合う姿勢が表現されているように思います。

感謝でおいしくいただきましょう

食はひとつの文化をつくり、エンターテイメントとして人々に喜びを与えるものだと思います。
ぼくもおいしいもの食べたいですしね。

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しかし「いのち」のあり方を見つめずに、うまい・まずい、多い・少ない、などモノの消費としてだけ食事を味わうのではダメなんだと思います。
ひとつひとつの食事に感謝の心をもち、「いただきます」と「ごちそうさま」の心を忘れないように、不平不満の心ではなく食べられるということの喜びを忘れないようにしたいと思います。
合掌
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